なぜ私がカウンセラーを志したのか

今回は、なぜ私がカウンセラーを志したのかを説明していきます。

以前開業カウンセラーのプロフィール・肩書きの作り方でカウンセラーを志した理由をお話しましたが、今回はより詳しく、私の生い立ちから現在に至るまでの道のりを包み隠さずお話しします。

暴力に満ちた幼少期、父親の会社倒産による転落体験、カウンセラーとしての集客での壮絶な失敗、そして妻と二人で軌道に乗せるまでの成功体験。

これらすべての体験が、現在のリフレクでのカウンセラー支援活動につながっています。

多くのカウンセラーがそうであるように、私も自分自身の心の傷を癒すためにこの道を選びました。

しかし、そこに至るまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。

少し長くなりますが最後まで読んで頂ければ幸いです。

この記事はこんな方におすすめです

  • カウンセラーでの起業を考えている方
  • プロフィールの作り方を知りたい方
  • モラハラ加害者に興味のある方

もくじ

  1. 暴力に満ちた幼少期
  2. 学校という暴力空間
  3. 「口答えするな」で封じられた自分の意見
  4. 人生のどん底体験
  5. 1年間の引きこもり生活
  6. 転機となった心理カウンセリングとの出会い
  7. NPO法人の廃業という挫折
  8. 集客コンサルタントからの屈辱
  9. 妻と二人で掴んだ成功への道のり
  10. 妻の協力があったからこそ
  11. リフレク設立への想い
  12. まとめ

暴力に満ちた幼少期

私は、鉄工所を経営する父親と専業主婦の母親のもとで一人っ子として育ちました。

父親からの日常的な暴力

父親は早朝から深夜まで働き、家にいる時は常にイライラして母親に暴力を振るっていました。

嫌いなものを残すと、父にゲンコツで殴られました。泣くと「泣くな!」と怒鳴られ、またゲンコツで殴られました。

頬を平手打ちされたことも何度もあります。

母親は止めてくれるものの、父親がその場からいなくなると「お父さんを怒らせないようにして」と父を擁護するため、私は母親を心から信頼できませんでした。

孤独な食事時間

家族3人で揃って食事をした記憶は、両手で数えるほどしかありません。

私はいつも1人で食事をしていました。

今思えば、母は多動で不注意なところがあり、在庫管理ができず、食材や調味料、カバンや洋服、日用品など、同じものを何個も買って来てしまっていました。

家全体の片付けもまったくできず、特に母の部屋は服が山積みで、足の踏み場もありませんでした。

そうしたことを父に咎められ、怒鳴られたり平手打ちをされたりして、母が泣いていることもしばしばありました。

発達障害と暴力環境の複合的影響

40歳でADHD(注意欠如・多動性障害)ASD(自閉スペクトラム症)の混合型と診断された私は、幼少期からの発達特性に暴力環境が重なったことで、極度にコミュニケーション能力が低下していました。

そうした発達特性と父からのDVの影響で、誰に対しても自分のことを話さない、口数の少ない子どもになりました。

他人に対して意思表示があまりできず、言語化能力が低いまま成長した私を、母は不憫に思い、先回りして色々とサポートしてくれていました。

当時の私は、感謝の言葉を口にすることはなく、発言しようとすると体が固まる、いわば場面緘黙のような状態だったと思います。

学校という暴力空間

昭和の体罰が当たり前だった時代

小学校高学年になると父親からの暴力は減りましたが、今度は教師からの体罰が増加しました。私が通っていた小・中学校の環境は想像を絶するものでした。

所謂"ヤンキー"たちが毎日のように生活指導の教師とやり合い、教師の車のフロントガラスが割られたり、校庭の隅にある焼却炉が爆破されたり、授業中に隣町の"ヤンキー"たちが角材や金属バットを持って乗り込んできたりと、暴力的な光景が日常的にありました。

野球部顧問からの壮絶な体罰

中学の野球部では、顧問からの体罰がエスカレートしていました。

野球部の顧問は、気に入らない生徒には「このボケが! 殺すぞ!」「お前らなんか生きている意味ないんじゃ、クソが!」などと罵詈雑言を浴びせ、近距離からボールをぶつけたり、平手打ちを喰らわせたりして、ろくに野球の練習をさせず、引退までひたすら外周を走らせました。

「口答えするな」で封じられた自分の意見

ASD受動型の特性を持つ私は、受身で自分の意見が言えない体質になっていきました。

小学校に上がった私が、たまに家にいる父親に学校であったことを話し始めると「うるさい!」「黙れ!」「しょうもないことを言うな!」と聞く耳を持ってもらえませんでした。

それでも話を続けると、「口答えをするな!」と怒鳴られました。

相手から嫌なことを言われると、頭が真っ白になり、言葉が出ず、その場で言い返すことができませんでした。

何も言わないと、相手には同意したと思われてしまい、結果的に都合良く「イエスマン」として扱われるようになりました。

高校生になると、私の家に悪い友だちが集まるようになり、朝まで麻雀をして居座られたり、部屋の中で喫煙されたりするほか、私のお金でカラオケに行くようにもなりました。

当時は「人に嫌われたくない」という気持ちが強く、後から自分の意見や言い返したいことが思い浮かんでも何も言えず、嫌な人間関係も自ら断ち切ることができず、嫌々付き合っていました。

この経験により、言葉で意思を表示することができなくなり「自分の意見を言ってはいけない」という深い信念だけが心に残りました。

人生のどん底体験

父親の会社倒産と転落

30歳の時、父親の会社が多額の負債を抱えて倒産しました。

慣れ親しんだ持ち家も手放すことになり、私は工場関係の仕事を転々とするようになりました。

子どもの頃からコミュニケーション能力が低く、手先も不器用だったため、新しい環境に馴染むことができませんでした。

会社の先輩にいじめられたり、財布からお金を抜き取られたりすることも多々あり、人間不信に陥りました。

人間関係がうまくいかず、解雇されることもあり、精神的にかなり追い詰められました。

1年間の引きこもり生活

このときは病院には行っていませんが、今思えば完全にうつ状態でした。

誰とも会う気になれず、自分の部屋から一切出ずに昼夜逆転の生活を送り、ずっとゲームばかりしていました。

コンビニに行くときも、隣近所の人に会わないよう深夜に出かけていました。

その後1年ほど実家に引きこもった私は、人生に対して完全に希望を失っていました。

何をしても意味がないように感じられ、毎日をただ生きているだけの状態でした。

転機となった心理カウンセリングとの出会い

自分を救うための学び

引きこもり状態の中で、心理カウンセリングの存在を知りました。

心の勉強がしたいという思いと、自身のメンタル回復とリハビリも兼ねて、カウンセラーの講座に通い始めました。

この時点では、うつ状態で人と関わるのが怖く、目を合わせることも怖かったため、電車では、どんなに席が空いていても座らずに立っていました。

こんな状態だったので、自分がカウンセラーになろうとは全く思っていませんでした。

こんな自分でも「人の役に立てるかもしれない」という希望の芽生え

日々、講座の人たちと関わる中で、少しずつ心を開けるようになってきました。

心の回復過程で「何の取り柄もない自分でも人の役に立てるかもしれない」という思いが芽生えました。

過去の自分のように人間関係で苦しむ人を助けたいと考えるようになり、35歳で心理カウンセラーとして働き始めることになりました。

NPO法人の廃業という挫折

有志10人ほどと意気揚々とNPO法人を立ち上げました。

とは言っても、会社設立に詳しい人が1人いただけで、その人に登記や法的手続きをすべて任せっきりでした。

私自身は登記や法的な理解は全くありませんでした。

父の鉄工所で少し営業経験はありましたが、既存の得意先回りをしていただけで、新規開拓の経験はありませんでした。

営業能力も低く、飛び込み営業を試みるも、人と話すのが苦手でコミュ障のため、門前払いばかりで全くうまくいきませんでした。

飛び込み営業をする度に、相手からは断られたり、厳しい言葉を言われることばかりで、次第に飛び込みが怖くなってきました。

他のメンバーは私より年長者ばかりでしたが、基本的にカウンセラーになる人は受身の人が多く、同じように営業もうまくいきませんでした。

みんな「ホームページを作れば、お客さんは自動的に来る」と思い込んでいる人ばかりで、現実的な集客戦略を持っている人は誰もいませんでした。

月日が経つにつれて、事務所から人がいなくなっていきました。

わずか1年で廃業・解散に追い込まれ、事務所を撤退する時は、本当にショックでした。

完全に心が折れた体験でした。

集客コンサルタントからの屈辱

NPO法人の廃業のショックを引きずり、今後についてどうしたら良いか全く考えられませんでした。

しかし、カウンセラーで食べていくことはやはり諦めきれず、一念発起して、藁をも縋る想いで高額の集客塾に通うようになりました。

ところが、ここでもさらに心が折れる体験をすることになります。

集客講座を受講するも効果はなく、その後5人の集客コンサルタントに指導を受けましたが、成果は全く出ませんでした。

集客コンサルタントたちは、ネット上にある集客方法の寄せ集めのようなことを言う人ばかりで、文章の書き方の初歩の初歩や、具体的なSNSの使い方、ブログの構成方法など、実際に必要な内容を全く教えてくれませんでした。

現状の私に必要な情報は何なのか、どこで詰まっているのかを理解してくれるコンサルは一人もいませんでした。

セミナーでは一方的に話すだけで「とりあえず書けばいい」と言うコンサルばかりでした。

私は、メールの文章を打つのも苦手なため「思うことを書けば良い」と言われても、発達特性により言葉自体が出てこず、頭がフリーズしてばかりで失敗体験ばかりを重ねていきました。

また、私自身も、自分が何をわかっていないのかということを理解していませんでした。

そのため、時間だけが流れていき、学んだ感だけが残りましたが、現実は何も変わりませんでした。

むしろ、時間の経過とともに不安や焦りばかりが募り「あなたは80歳まで絶対に売れない」と人格否定まで受けて、完全に心が折れました。

100人以上のカウンセラーの廃業を目撃

この15年間で、志や実力はあっても集客ができずに辞めていったカウンセラーを100人以上見てきました。

彼らの多くは本当に素晴らしい技術と人柄を持っていましたが、「良いサービスを提供していれば、いつか必ず人は来る」という思い込みが彼らを苦しめていました。

妻と二人で掴んだ成功への道のり

信頼できる人々との出会いと独学での集客習得

集客コンサルタントに頼ることをやめ、わからない点や出来ないことがあれば、その都度、自分たちが信頼できる人たちに実際に会い、または専門書を読み漁りました。

妻と二人で独学で集客を学び、何度もトライアンドエラーを繰り返し、実際に効果があるものだけを残していく日々が続きました。

文章作成については、30記事ほどを書いてようやくコツを掴み、現在は平均3日で1記事を作成できるまでに成長しました。

カウンセラー特有の集客法の発見

その過程で分かったことは、カウンセラーの集客には「カウンセラーならではの特別な手法」が必要だということでした。

一般的なビジネスの集客手法をそのまま適用しても、うまくいきません。

相談者の心理、信頼関係の構築、専門性の伝え方など、カウンセラー特有の要素を理解した上でのアプローチが必要でした。

より具体的で読者に伝わりやすくなりました!

妻の協力があったからこそ

実は、集客の成功は私一人の努力だけではありませんでした。

妻も同時に、自分自身の被害者体質と向き合い、克服する努力をしていました。

妻は幼少期からヤングケアラー状態で育ち「自分よりも他者を優先する」思考が染み付いていました。

父親が借金を抱えて家を出た後、電気やガスを止められるほどの貧困の中で、母や姉たちの顔色を常に伺い、家族に負担をかけまいと自分の気持ちを押し殺して生きてきました。

そんな妻だからこそ、私のモラハラ行為に対しても「私が悪いのかも」と自分を責め続けていたのです。

妻が私の発達障害に気づいてくれた

転機となったのは、妻が私の発達障害に気づいてくれたことでした。

私は以前から「たぶん発達障害だと思う」と言っていましたが、妻は軽く流していました。

しかし、児童向けの心理学書を読んでいた妻が「あれ、夫ガチで発達障害やん」と気づき、私の行動パターンを発達障害の特性として理解してくれるようになりました。

妻は私の以下のような特性を「困った癖」ではなく「脳の特性」として受け入れてくれました。

  • 空気を読めない
  • 変化への強い拒否感
  • 決めた通りにならないとフリーズする
  • 突然、沸騰したように怒り出す

集客の学習も二人三脚で

集客の独学も、妻と二人で取り組みました。

私が文章作成で苦労している時、妻は私とは違った視点で「相談者が本当に求めているもの」を分析してくれました。

妻自身がモラハラ被害者として相談者の気持ちを深く理解していたからこそ「どんな発信をすれば相談者に響くのか」「どんなカウンセラーなら信頼できるのか」という貴重な視点を提供してくれたのです。

現在のリフレクでは、妻が所長として運営の中心を担っています。

私は副所長として、妻をサポートする立場です。

妻の「被害者・相談者目線」こそが、リフレクの集客サポートの核心部分なのです。

私だけでは絶対に気づけない「相談者が本当に求めているカウンセラー像」を、妻が教えてくれます。

一人では絶対に成功できなかった

振り返ってみると、妻の協力なしには今の成功は絶対にありえませんでした。

私の集客への苦労を理解し、共に学び、私の特性を受け入れながら、相談者目線での貴重な助言をくれる妻がいたからこそ、今のリフレクがあります。

「カウンセラーが食べられる世の中を作りたい」という想いも、夫婦二人で共有している想いです。

リフレク設立への想い

「カウンセラーが食べられる世の中にしたい」「カウンセラーの地位を向上させたい」という想いから、同じ苦労を経験したカウンセラーたちのサポートを決意しました。

自分たちが15年間で経験した失敗と成功の全てを、現在頑張っているカウンセラーたちに伝えるために、妻と共にリフレクを設立しました。

同じ道を歩む仲間への想い

私がカウンセラーを志したのは、自分自身の心の傷を癒すためでした。

そして今、同じようにカウンセラーを志した方々が、集客という壁で挫折することなく、本来の目的である「人を助ける」という使命を果たせるよう、サポートしたいと考えています。

この記事を書いた人

経験と専門性

  • 夫婦でモラハラの問題を克服した専門家
  • ASD・ADHDの混合型診断済み
  • モラハラ加害者としての更生を実現
  • 週刊文春オンラインで連載で加害者心理と更生過程を完全公開

臨床経験(2010年〜)

カウンセラーとして幅広い支援経験

  • 公的機関での生活保護・生活困窮者自立支援
  • 福祉施設での精神疾患・発達障害者支援
  • うつ病の方の復職支援
  • 元受刑者・薬物依存者への更生支援
  • ひとり親・DV被害者相談
  • 企業内パワハラ相談
  • 自助グループ・セミナー開催

メディア掲載実績

新聞・雑誌掲載

  • 週刊文春オンライン(2024年11月 3記事連載)
  • 産経新聞(2021年9月)
  • 神戸新聞 まいどなニュース(2021年3月)
  • 中日新聞 ねぇねぇちょっと特別編(2021年12月)
  • ウレぴあ総研 ハピママ(2023年7月 3記事掲載)

テレビ・ラジオ出演

  • NHK「ほっと関西」(2021年11月出演)
  • KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(2021年9月出演)

全国11媒体でモラハラ解決の専門家として紹介

カウンセラー集客専門のリフレクって?

リフレク(Reflec)は、カウンセラー専門のWEB集客支援サービスです。

他社コンサルとの決定的な違い

現役カウンセラーが集客コンサルを行う

一般的な集客コンサルの多くは、WEBデザイナーやマーケター出身で、カウンセリングの経験がなく現場を全く知らない方ばかりです。

私たちは15年間の豊富な臨床経験を持つ現役カウンセラーとして、カウンセラー特有の悩みや課題を深く理解しております。

メディア実績による確かな信頼性

週刊文春オンラインへの連載をはじめ、全国11媒体でモラハラ解決専門家として紹介されています。

この実績は、私たちの専門性と信頼性を証明するものです。

専門分野

  • カウンセラー特化型のWEB集客戦略立案
  • 相談者に響く発信方法の指導
  • 信頼構築のためのコンテンツ作成サポート
  • カウンセラーの強みを活かしたブランディング
  • 実績のないカウンセラーでも集客できる手法の開発
  • 同じ経験を持つ専門家として、カウンセラーの状況に寄り添うことが可能

私たちの想い 「カウンセラーが食べられる世の中を作りたい」「カウンセラーの地位を向上させたい」という想いで、集客に困っているカウンセラーの支援を行っています。

15年間で100人以上のカウンセラーが集客できずに廃業する現実を目の当たりにした私たちが、現実的かつ実用的な集客サポートを提供し

まとめ

最後まで読んで頂きありがとうございました。

今回は、私がなぜカウンセラーを志したのか、そして集客で苦労しながらも妻と共に成功を掴むまでの道のりをお話しました。

暴力に満ちた幼少期、うつ状態からの回復、集客での壮絶な苦労、そして妻との二人三脚での成功体験。

これらすべてが、現在のリフレクでのカウンセラー支援につながっています。

あなたがカウンセラーを志した理由は何ですか?その初心を忘れずに、集客という壁を乗り越えて、本来の目的である「人を助ける」という使命を果たしてほしいと心から願っています。

もし集客で悩んでいたり、少しでも疑問や不安を感じた場合は、ぜひ私たちにご相談ください。 

あなたのビジネスが一日でも早く軌道に乗るように、リフレクが全力でサポートさせていただきます。 

些細なことでも構いませんので、一人で抱え込まずに気軽にご連絡くださいね。

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まずはお友達登録をして、ぜひ一度ご相談ください。お待ちしております!

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私たちリジェネ(モラハラ解決相談所)のブログに興味がある方はコチラから

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