②発達社長の歯を食いしばる日記|一番やばそうな目をしていた頃

前回は、幼少期から中学時代までを振り返りました。

各回の内容は、以下の通りです。

今後の投稿予定

  • 第1回:殺されると思っていた幼少期
  • 第2回:一番やばそうな目をしていた頃(今回)  
  • 第3回:仕事は続かず、野球にだけ全力だった 
  • 第4回:認められた喜びが、歪みに変わった日 
  • 第5回:あなたは80歳まで売れない 
  • 第6回:離婚危機が教えてくれた発達障害 
  • 第7回:ある朝、天井がグルグル回り出した 
  • 第8回:それでも、この仕事は諦めなかった

※第3回以降は順次公開予定です。公開され次第、リンクを追加します。

今回は、高校から音楽専門学校時代までを振り返ります。

家庭でも学校でも緊張と孤立の中にいた中学時代を経て、私はさらに対人関係が歪んだまま、高校生活に突入します。

友人からは「一番、ヤバそうな目をしてる」「狂っている」と言われるほど、社会性もコミュニケーション能力もないまま、それでも何かに熱中しようともがいていた時期です。

今回もかなり赤裸々に書いていますので、最後まで読んでいただけたら幸いです。

もくじ

  1. カナヅチが決めた、高校選び
  2. 森高千里と、土砂降りの中のループアンテナ
  3. 久松史奈にハマった日々
  4. 「一番ヤバそうな目をしてる」
  5. 腕相撲無敗と、パンチマシーン巡礼
  6. ニキビと、変形ズボンのズレた美意識
  7. 楽専門学校への短絡的な進路
  8. モテ期を勘違いし、バンド解散
  9. 二十歳で改名を突き付けられる
  10. マルチ商法の洗礼
  11. まとめ

カナヅチが決めた、高校選び

私は筋肉質ではあったが、水泳が大の苦手でカナヅチである。

息継ぎができず、全身に力が入り、溺れているのと変わらない泳法なので、当然進まない。

15mほどで止まった時に、女子に指を指されて笑われた。

これが思春期の自分にはあまりにもショックすぎたため、そこから水泳の授業を欠席し、高校は「プールがない学校」を基準に選んだ。

偏差値は58くらいだったが、行きたくもなかった私立の男子校に行くことになった。

野球部はあったが、見学の際にノックを見た時に、内野全員がトンネルをしまくっていたので、これはダメだと思い、帰宅部を選択した。

森高千里と、土砂降りの中のループアンテナ

多感な時期だったので、私は当時のアイドル、今も現役の森高千里のファンになった。

ただ、森高千里は当時すでに大ブレイクしており、私にとっては全く手の届かない存在だった。

出待ちなどできるはずもなく、ただラジオを聴くことだけが、彼女との接点だった。

当時はradikoもないため、大阪では聞けなかったニッポン放送のレギュラー番組を絶対に聴きたいと思い、ラジオ用のループアンテナを購入してもらった。

このアンテナは正方形で一辺80cmほどあり、かなり大きい。

毎週土曜の21時、土砂降りの日でも、彼女のラジオを聴きたくて重たいアンテナをマンションの2階から半身で出していた記憶がある。

ただ、録音したラジオを再度聴いた記憶は、一度もない。

久松史奈にハマった日々

森高千里への熱が少し冷めてきた頃、久松史奈という歌手を好きになった。

1992年に「天使の休息」という曲で50万枚のスマッシュヒットを飛ばした、愛知県出身の歌手だ。

彼女のことはMBSのヤングタウンというラジオで知り、私は1991年頃からファンになった。

森高千里との決定的な違いは、久松史奈がまだ売れていなかったことだ。

「天使の休息」がヒットするまでは、小さいライブハウスでしか集客できていない、いわば無名の歌手だった。

だからこそ、私には「自分が育てている」という感覚があった。

これは今思えば、森高千里という手の届かない存在で満たされなかった欲求を、久松史奈で満たそうとしていたのだと思う。

大変気持ち悪いし、押し付けでしかない。当時は当然、そんな自覚は全くなかった。

今となれば熱狂的な部類に入ると思うが、ライブやラジオ収録の出待ちなどは当たり前のように行い、プレゼントを渡したりしていた。

ラジオのスペシャルウィークがあれば、ハガキを100枚くらい平気で投稿していた。

そういうオタクな行動をしている内に、仲間的な人が数人でき、彼らと共に行動していた。

今のようにradikoがないので、関東地方のラジオはカセットテープに撮って送ってもらったり、反対に私も送ったりしていた。

関東に遠征に行った時は、泊めてもらったりもしていた。

ただ、全員コミュ障であり、出待ちで彼女と話せる機会があっても緊張して、まともに話せた記憶はない。

また、中学時のカナヅチの件で女性恐怖症的になっていたので、出待ちをして彼女を間近で見たいにもかかわらず、目を合わせられないという挙動不審な状況になっていたと思う。

どこに行っても我々がいるので、彼女の表情は常に引き攣っていた記憶がある。

10代後半の頃は、深夜ラジオにも熱狂していた。

ナイナイや電気グルーヴのオールナイトニッポン、サイキック青年団は欠かさず聞いていた。

「一番ヤバそうな目をしてる」

このように歪んだまま、高校生活に突入した。

当然ながらコミュニケーション能力は低く、自ら人に話しかけることはせず、友達らしい友達はできなかった。

後に、この時に出会った友人曰く「一番ヤバそうな目をしてる」「狂っている」というコメントをもらった。

例えば、ハンドボールの授業があったのだが、私は野球ができないストレスが溜まっていたのもあり、とにかく思い切りボールを投げたかった。

しかも全員、敵だと思っていたので、とりあえずゴール前に立ち、キーパーの顔面を目掛けて思い切りぶつけることに専念した。

なぜ、このような奇行に及んだのかと言えば、学生生活も何一つ楽しくない、誰も信用していない、熱中するものもない、生きていてつまらない、という行き場のない怒りがあったのだと思う。

その奇行を見て、周りは危険人物だと思ったようだが、友人だけが私を気に入り、彼が運営している草野球チームにスカウトされた。

腕相撲無敗と、パンチマシーン巡礼

細身だが力だけは強かったので、アメフト、空手、ラグビー、柔道部の強者にも腕相撲では負けたことがなかった。

これは、毎日1.5kgのバットを振り続けた結果だと思う。

また、その時ハマっていたのが、ゲーセンにあるパンチマシーンだ。

大阪中のパンチマシーンを原付で巡っては、記録を塗り替えることに執念を燃やしていた。

何とも計画性のない高校時代を過ごしたと思う。

男子校に行ったのもあり、いわゆる合コン的なものもあったが、コミュ障と中学時のトラウマで女性恐怖症になっていたため、アイススケートに行ったのに、一言も話さずに一人で滑れもしないスケートを楽しんで帰った記憶がある。

ニキビと、変形ズボンのズレた美意識

高校の時は、星稜時代の松井秀喜と変わらないほど、顔に隙間がないくらいのニキビ面で、それが嫌すぎてクレアラシルをテカテカになるまで顔中に塗りまくっていた。

塗りまくれば早く治ると思い込んでいたからだ。

その塗り方のせいで、全くニキビはなくならなかった。

また、高校は私立の男子校でブレザーにネクタイ着用であったが、入学当初の私は美的感覚がズレており、ヤンキーが穿く変形ズボンを購入して穿いていった記憶がある。

上がブレザーなのに、下がニッカポッカくらい膨らんでおり、この奇行のおかげでヤバい奴だとは思われていたと思う。

この頃は、ギリギリまで寝なかったので、しょっちゅう金縛りに遭っていた。

音楽専門学校への短絡的な進路

次に、音楽専門学校に入ったのだが、なぜ、この学校に行ったのかというと、まず、カラオケがそこそこ上手かったのがある。

そこで味を占めて、ノープランで、その道のプロになれるのではという短絡的な発想で進学した。

最初はギター科に入った。

その理由は、高2からヤマハのギター教室に通っていたのと、歌がそこそこなので、ギターもプロになれば、一人でB’zみたいになれるのではという、小学生並みの思考なのも大きい。

ただ、ギター科に入る人というのは、当然ながらプロを目指している訳で、その時点でバンドなどを組んでいて、私のような初級レベルの人はいない。

いきなりギターソロを弾けと言われても、ペンタトニックスケールも理解していないため、全く弾けない。

完全に舐めていたのと、付いていけなくなったため、ボーカル科に転入した。

そこでは、学校中で一番上手いという評価に変わった。

これが人生で最初に経験した成功体験である。

モテ期を勘違いし、バンド解散

それにより、ギター科の彼にスカウトをされ、バンドを組むことになった。

ただ、私はこの時点でもコミュ障であり、何なら、成功体験をしてしまったがために、異常なプライドを持っていたし、社会不適合者であった。

ADHDの体質もあるが、バンドの練習に時間通り行ったことはないし、無断で欠席することも何回もあった。

それらについて謝罪することもなかった。

また、人生で最初のモテ期が訪れたため、勘違いをしたのもあり、授業も受けず、バンドの練習にも参加せずで、メンバーからは三行半を突きつけられて、解散になった。

このことに対しては、私は特に反省もせず、私に批判的なことを言ってきたメンバーに、ただただムカついていただけである。

その時点で、連絡先を電話帳から全て消した思い出がある。

二十歳で改名を突き付けられる

二十歳の頃に母親から、突然、改名しろと別の名前を提案されたことがある。

その時はバブルが終わるころで家庭内は裕福だった。母は昔から高島易断という占いにハマっていたようで、象牙の印鑑や水晶などが多数あった。

恐らく1個30万円以上はするのが5本はあった。

その流れで改名を促してきたと思う。

尖っていた私は、当然ながら二つ返事で「はっ?お前、頭おかしいんか?」「狂ってんのか!」と言って突っぱねた記憶がある。

私の名前は字画が最悪らしいので、改名させたかったようだが、それなら出生時に、ちゃんと付けろよとは思った。

私の下の名前は「基次(もとつぐ)」だが、提案された名前は「こうすけ」である。

私は、あの時、改名していたら「こうちゃん」と呼ばれて、バラ色の人生を歩んでいたのだろうか。

マルチ商法の洗礼

常識や社会を知らず、ネットもない時代だったので、よくマルチ商法のセミナーに連れて行かれた。

当時通っていた美容室のオーナーに、友達を何人か呼んでギャラリーに来てほしいと言われて、ラッセンの絵を50万円でローンを組まされそうになったり、健康食品のセミナーで、目がバキバキの人たちに何時間も商品の素晴らしさや、アンバサダーになったら寝てても金が入るという説明を延々とされた。

その頃の私は、髪は金髪で体はムキムキではあったが、言い返す言葉を持っていなかった。

だから断ることもできず、苦笑いをしていた記憶がある。

あの人たちは、今どうなっているのか気になる。

この記事を書いた人

経験と専門性

  • 夫婦でモラハラの問題を克服した専門家
  • ASD・ADHDの混合型診断済み
  • モラハラ加害者としての更生を実現
  • 週刊文春オンラインで連載で加害者心理と更生過程を完全公開

臨床経験(2010年〜)

カウンセラーとして幅広い支援経験

  • 公的機関での生活保護・生活困窮者自立支援
  • 福祉施設での精神疾患・発達障害者支援
  • うつ病の方の復職支援
  • 元受刑者・薬物依存者への更生支援
  • ひとり親・DV被害者相談
  • 企業内パワハラ相談
  • 自助グループ・セミナー開催

メディア掲載実績

新聞・雑誌掲載

  • 週刊文春オンライン(2024年11月 3記事連載)
  • 産経新聞(2021年9月)
  • 神戸新聞 まいどなニュース(2021年3月)
  • 中日新聞 ねぇねぇちょっと特別編(2021年12月)
  • ウレぴあ総研 ハピママ(2023年7月 3記事掲載)

テレビ・ラジオ出演

  • NHK「ほっと関西」(2021年11月出演)
  • KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(2021年9月出演)

全国11媒体でモラハラ解決の専門家として紹介

まとめ

カナヅチのトラウマから始まった高校選び、森高千里への届かない憧れ、そして久松史奈への熱狂。

友人から「一番、ヤバそうな目をしてる」と言われるほど、私は社会性もコミュニケーション能力もないまま、それでも何かに夢中になろうともがいていました。

音楽専門学校では、人生で初めて「評価される」という成功体験も得ましたが、その後のバンド解散で見せた身勝手さは、今振り返っても反省すべき点です。

次回は、鉄工所やバイト先を転々とした、社会人としての迷走期を振り返ります。

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