③発達社長の歯を食いしばる日記|仕事は続かず、草野球にだけ全力だった  

前回は、高校から音楽専門学校時代までを振り返りました。

今後の投稿予定

※第4回以降は順次公開予定です。公開され次第、リンクを追加します。

今回は、その後の職歴を振り返ります。

結論から言うと、私はどの仕事に就いても長続きせず、唯一、草野球と筋トレにだけ全てを注ぎ込んでいました。

なぜここまで仕事が続かなかったのか、当時の私の様子を、包み隠さず書いていきます。

もくじ

  1. 1日で辞めた居酒屋、3日で辞めた引越し屋
  2. 弁当配送とありがとう浜村淳です
  3. グリーンピース4つで、ご飯押しの刑
  4. 父の鉄工所で過ごした7年間
  5. 僕、お父さんは何時に帰ってくるの?
  6. 自費で作った防御壁
  7. 6歳児に脅されて「キャッチャーをやらされた」
  8. 30歳、人生二度目の挫折
  9. 製油所でのいじめと解雇
  10. 後部座席に「100kgの重り」
  11. 若気の至りと、感覚鈍麻
  12. 車で、やらかしていた
  13. まとめ

1日で辞めた居酒屋、3日で辞めた引越し屋

高校生の頃は、居酒屋もカラオケ屋も1日で辞めた。
引越し屋は3日で辞めた。
倉庫内の仕分け作業は、夏休みに1ヶ月だけやった。
流れてきた荷物を仕分けるだけだったので、できた。
ただ、ドライバーのおっさん達に、基本的にいい人はおらず、怒鳴ったり文句を言ってきたりする人たちばかりで、今なら完全にパワハラだが、それがうざくて辞めた。

弁当配送とありがとう浜村淳です

18歳の時、会社に仕出し弁当を配送し、ガラ(食後の空き容器等)を回収する仕事を6ヶ月ほど続けた。

家からめっちゃ近いのと、運転が好きだったので何とか続いた。

会社の食堂で調理をする料理人を横に乗せないといけなかったのだが、そのおっさんは偉そうで、毎日不機嫌で、会社の人の文句しか言わず、横でタバコをバカバカ吸うデリカシーのない人だった。

私は一切、会話はしたくなかったので、毎日ワンボックスカーの全ての窓を全開にして、AMラジオを爆音で流し、苦痛を紛らわしていた記憶がある。

信号待ちの時には、周りの全ての車に「ありがとう浜村淳です」を届けられていたと思う。

グリーンピース4つで、ご飯押しの刑

倉庫内でのピッキング作業は1年半ほど続いた。

伝票を元に商品を店ごとに取ってきて梱包する、単純な作業だ。

1日中小走りで動きまくるので、体重は50kg台だった。

人とコミュニケーションを取らずにひたすら作業する仕事は、私には続いたような気がする。

単発のバイトでは、コンビニ弁当の製造ラインに入ったこともある。

私はADHDのため手先が不器用だが、最初に担当したのが天津飯のレーンで、グリーンピースを4つ置くという仕事だ。

それが全くうまくいかず、数が違うと最終ラインでブザーが鳴る。

繰り返すうちにお局的な女性に「兄ちゃんは、ご飯押し!」と言われ、丼物の白米に窪みをつけるだけの最も単純な仕事に回された。

それでも窪みが安定せずブザーが鳴りまくったので、3日の勤務予定だったが1日で終了となった。

父の鉄工所で過ごした7年間

そんな私を不憫に思ったのと、一人息子を後継ぎにしたいのと、音楽で食える道がなさそうな息子を見て、父は自身が経営する鉄工所で働けと言ってきた。
社員は常時10人ほど、繁忙期には15人程度。
橋梁や大型建造物を中心に取り扱っており、高速道路の橋梁、マンションの立体駐車場、ETCのレーン、歩道橋なども作っていた。
会社が倒産するまで、約7年ほど勤めたが、どの作業も苦手だった。
溶接が綺麗にできず、CADでの製図も、後の発達検査で判明した空間認識能力の低さのせいで、極端に苦手だった。
そもそも仕事をすること自体に興味が持てなかった。
興味があるのは野球と筋トレだけで、毎日寝るのは2時以降だったため、朝もまともに起きられず、就業開始時間にまともに行った記憶がない。
4年くらいは定時の8時に出勤したことがなかった。

僕、お父さんは何時に帰ってくるの?

職人の人たちは、自由奔放すぎる私を完全に子ども扱いしていたため、私のことを「僕」と呼んでいた。
「僕、お父さんは、営業から何時に帰ってくるの?」という感じで、私に聞いてきた。
父は、ちゃんと時間に来るようにと叱ることはあったが、昔のように怒鳴ることはなく、終始バツが悪そうであった。
これは、何としても後継ぎにしたいからだと思う。

自費で作った防御装備

私は終始寝不足だったため、鉄の研磨時にグラインダーで自分の手を削ったことは何度もある。
野球に全振りしていたため、どれだけ仕事が残っていても、遅刻をしているくせに定時で勝手に上がっていた。
そして隣の工場の壁にストラックアウト用の的をスプレーで作り、投球練習を全力でしていたら、壁に穴が開いた。
タバコにまつわる話もある。
私は20歳でタバコを止めたのだが、自分が吸わなくなった途端、副流煙をかけてくる人が絶対に許せなくなった。
父の工場の事務所には、営業の50代のおっさんだけがタバコを吸っていたため、私は自費で換気扇2つと扇風機2つを購入し、それらを彼のデスクに向けて設置した。
某国の迎撃ミサイルが向けられているようなイメージだ。
彼がタバコを吸い始めたら、大きなため息を吐きながら換気扇を全て回し、扇風機を強で彼に向けた。
彼の髪は、90年代の井上陽水くらい、常に逆立っていた。
その突風の中でもタバコを止めなかったのは、あんな息子に負けてたまるかという意地だったのだろうと、今となっては思う。
こんな奇行を平気でできたのも、社会性のなさと、家族経営の最たるものだと思う。

6歳児に脅されて、キャッチャーをやらされた

鉄工所でストラックアウトをしていたら、6歳くらいの身長120cmほどの男の子に「おい、そこのお前、キャッチャーやれ」と強めに言われ、彼とバッテリーを組んだことがある。
今考えると、壁に向かって思い切りボールを投げているアタオカの男に、よく声をかけれたなとは思う。
傍から見れば父親と息子のキャッチボールだが、実際は私が彼に脅されて無理やりキャッチャーをやらされているということは、誰も知る由がないと思う。
彼は今、20代中盤になっていると思うが、もう一度罵声を浴びせられてキャッチャーをやってみたいとも思える。

30歳、人生二度目の挫折

私が30歳の頃に不渡手形が要因で会社が倒産し、父は自己破産を余儀なくされ、持ち家を失った。
このまま自営業での生活が続くだろうと思っていたが、慣れ親しんだ家も失い、前年には初めて飼った猫も亡くなり、私は引きこもりになった。
1年ほど引きこもったが、その一年はほぼパワフルプロ野球の選手育成に時間を費やした。
草野球だけは続けていたので、毎日深夜の公園で素振りをしていたため、職務質問をされたのは一度や二度ではない。

製油所でのいじめと解雇

引きこもり期間を経て、父のコネで製油所内の軽装業務に就労した。
千個以上の計器のメンテナンスを行う仕事で、製油所内は危険物が多数ある。
高所作業時に工具や部品を落としたのは一度や二度ではなく、専任の親方には何度も怒声を浴びせられた。
製油所は東京ドーム40個分以上あるが、その場所の名前や計器の位置を、とにかく覚えられなかった。
ヒヤリハットや始末書も何度も書いた。
先輩からは財布の金を盗まれるなどが何度もあり、会社に訴えてもまともに応じてもらえなかった。
解雇という形にはなったが、私も嫌になって辞めたという記憶がある。
この経験で、私は極度の人間不信になり、人と接したり電車に乗ったりすると、周囲の人の目線が気になるなどの状態になった。

後部座席に100kgの重り

この頃、私はフラストレーションを全て草野球と筋トレにぶつけていた。
草野球を全力で行い、参加するリーグでの優勝だけを念頭に置いていた。
この行動は、結婚する38歳まで続く。
高校の時から一緒に活動していたAという友人は、結婚し育児で忙しい時期にも関わらず、30代後半まで深夜まで付き合ってくれた。
近所に良いバッセンがあるにもかかわらず、毎週末、100km離れた滋賀の栗東のバッセンまで通っていた。
これは中学野球部で満たされなかった未完了の思いを埋めるためだったのだろうと、心理学を学んでから気づいた。
30代になってから、私は草野球の全盛期を迎えた。
筋トレも、ボディビルダーと格闘家しかいないジムに通い出し、最終的には体重65kgでベンチプレス127.5kgまで挙げられるようになった。
体脂肪は10%前後だったので、しょっちゅう風邪を引いていたが、大会に出るわけでもない、ただの自己満足だった。
車には常にウェイトトレーニングの重りが50kg程度、バー20kg、ケトルベル32kg、合計100kg程度の重りが積んであり、車体は常にシャコタンのように沈んでいた。
製油所の勤務時には、日本で一番有名な製油所だったので立派なグラウンドが併設されており、毎日ベースランニングを必死にやっていた。
仕事は全くできず怒られまくっていたが、その鬱憤を晴らすように毎日欠かさず行っていた結果、5年連続で草野球リーグの首位打者と盗塁王になれた。

若気の至りと、感覚鈍麻

町中華のおっちゃんに、素っ気なかった

小学4年頃まで、週末になるとよく父と行っていた町中華の店があり、私はそこの炒飯が大好きだった。
カウンターのみの狭い店であったが、夫婦で切り盛りしており、私は毎回、炒飯大盛りを食べていた。
小学5年の時に転校したため、その店には行けなくなった。
車の免許を取った二十歳ごろに、あの炒飯を食べてみたいと思い、一人で通い出した。
まだ店はあり、おっちゃんは「僕、大きくなったな!」と言って微笑んでいた。
しかし、コミュ障全盛期の私は「違います」と言って、おっちゃんと一言も話さず帰った経験がある。
おっちゃんは、私が行く度に、りんごを剥いてくれたりして嬉しそうに「食べや」と言って私の前に置いてくれた。
私はそれを無言で食べ、料金を払って出て行った。
その頃の私は、単に炒飯が食べたいだけだった。
食事の最中に誰かと話すという習慣がなく、その行為が苦痛だったため、やばいくらいの素っ気ない態度を取ってしまった。
今となっては、本当に申し訳なかったと思う。
ちなみに、その店は、私が20代の頃に廃業になった。

相席拒否で、舌打ちしていた

それ以外でも、定食屋で「相席よろしいですか?」と言われた際、「はっ?」と言って睨みながら舌打ちしていたのは懐かしい思い出である。

疲労の自覚が、全く無かった

30代の頃の私は、疲労というものの自覚が全く無かった。
今思えば、発達特性である感覚鈍麻だったのだろう。
週6日、毎日1時まで筋トレをし、バッセンに行く生活をしていた。
毎日睡眠不足で、自ら過労状態を作り出していた。
また、結婚する前は、私の家から80kmほど離れている妻の家に送迎していた。
その帰りに、居眠りをしていて阪神高速の環状線の堺方面のカーブに何度も突っ込みそうになったことがある。

車で、やらかしていた

スピード違反で、免停常連だった

20代前半の頃は、スピード違反でよく捕まっていた。
免停にもよくなっていた。
これはADHDの衝動性の部分かとは思う。

不注意で、車をガコンとぶつけていた

ADHDの不注意性で、駐車場からの発進時に縁石があるにも関わらず進んだり、店舗から道路に合流するときに段差に気づかず、車の下部をガコンと打ち付けたりしていた。

和歌山でガス欠、5時間歩いた

和歌山でガス欠、5時間歩いた
ガス欠にも何度もなった。
これはガソリンのエンプティランプが光っても、ギリギリまで入れない性格と、少しでも安いスタンドで入れたいという貧乏根性からだ。
今から30年ほど前、和歌山の海南の42号線でゴールデンウィークにガス欠になったことがある。
その頃はガソリンスタンドがなかった。
今でこそ深夜も営業しているスタンドがあるが、30年前は本当になかった。
遠くにオレンジ色の明かりが見えて「エネオスだ!」と思ったら吉野家で、めっちゃがっかりしたのを覚えている。
友達と5時間歩いて、紀の川のスタンドまで辿り着き、ポリタンクにガソリンを入れてもらった。
その頃はまだ違法ではなかった。
ポリタンクを持ってタクシーに乗り、車を停めた場所まで戻った。
みんなブチギレていた。
その日の帰りに、再度、家の近所でガス欠になった。
友達がブチギレながら、近所のスタンドまで一緒に車を押して持っていった。
その時は普通車のカローラであったが、車というのはこんなにも重いんだ、わずかな坂でもこんなに進まないんだ、と実感した経験がある。
エンプティランプが光ってからも「まだ大丈夫」と判断してしまうのは、ADHDの見通しの甘さの典型例だ。

合コン遅刻で、オービスに真っ赤に光った

友人と合コンに行く時、2台に分かれて向かっていた。
残業になり遅刻しそうだったので、まあまあ飛ばしていた。
その時に阪神高速のオービスに、まず友人が光った。
私は、それに気付いて「やばい」と思ったが、時すでに遅しで、私も真っ赤に光った。
警察で取り調べを受け、裁判所のようなところで8万円払った。
遅刻を避けるためとはいえ、リスクを考えずにアクセルを踏むのは、ADHDの衝動性そのものだった。

若い頃の私は、発達特性がまだ「困った癖」でしかなかった。
診断も自覚もないまま、衝動と不注意で車と自分を痛めつけていた時期だ。

この記事を書いた人

経験と専門性

  • 夫婦でモラハラの問題を克服した専門家
  • ASD・ADHDの混合型診断済み
  • モラハラ加害者としての更生を実現
  • 週刊文春オンラインで連載で加害者心理と更生過程を完全公開

臨床経験(2010年〜)

カウンセラーとして幅広い支援経験

  • 公的機関での生活保護・生活困窮者自立支援
  • 福祉施設での精神疾患・発達障害者支援
  • うつ病の方の復職支援
  • 元受刑者・薬物依存者への更生支援
  • ひとり親・DV被害者相談
  • 企業内パワハラ相談
  • 自助グループ・セミナー開催

メディア掲載実績

新聞・雑誌掲載

  • 週刊文春オンライン(2024年11月 3記事連載)
  • 産経新聞(2021年9月)
  • 神戸新聞 まいどなニュース(2021年3月)
  • 中日新聞 ねぇねぇちょっと特別編(2021年12月)
  • ウレぴあ総研 ハピママ(2023年7月 3記事掲載)

テレビ・ラジオ出演

  • NHK「ほっと関西」(2021年11月出演)
  • KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(2021年9月出演)

全国11媒体でモラハラ解決の専門家として紹介

まとめ

居酒屋は1日、引越し屋は3日。

どんなバイトも長続きせず、父の鉄工所でも7年間、ずっと仕事に興味を持てませんでした。

換気扇2つで作った迎撃ミサイル、6歳児に脅されてやらされたキャッチャー。

奇行だらけの毎日でしたが、唯一、草野球と筋トレにだけは全力を注ぎ続けていました。

30歳での会社倒産、製油所でのいじめと解雇を経て、私は再び引きこもることになります。

次回は、そこで出会った深夜ラジオと、カウンセラーという仕事との出会いを振り返ります。

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