①発達社長の歯を食いしばる日記|殺されると思っていた幼少期
「発達社長の歯を食いしばる日記」では、いつも発達障害を抱えながら自営業を続ける私のリアルな日常を書いています。
これまでは、その時々に感じたことや失敗を単発で書いてきましたが、今回から数回に分けて、私の半生を時系列で振り返る特別編をお届けします。
全8回を予定しており、この内容は今後Kindle本としてまとめる予定です。
各回の内容は、以下の通りです。
今後の投稿予定
- 第1回:殺されると思っていた幼少期(今回)
- 第2回:一番やばそうな目をしていた頃
- 第3回:仕事は続かず、野球にだけ全力だった
- 第4回:認められた喜びが、歪みに変わった日
- 第5回:あなたは80歳まで売れない
- 第6回:離婚危機が教えてくれた発達障害
- 第7回:ある朝、天井がグルグル回り出した
- 第8回:それでも、この仕事は諦めなかった
※第2回以降は順次公開予定です。公開され次第、リンクを追加します。
なぜ、今このタイミングで半生を振り返ろうと思ったのか。
理由は単純で、リフレクの読者には、発達障害やグレーゾーン、体力に不安があるなどの理由で、フルタイム勤務が難しい方や、自営業に興味はあるが自分にできるのか不安な方が多くいるからです。
私は、幼少期から「何を考えているのかわからない子ども」と言われ続け、どんな仕事に就いても続かず、失敗ばかりの人生でした。
発達障害の診断を受けたのは40代になってからで、それまでは自分がなぜこんなに生きづらいのか、理由もわからないまま過ごしてきました。
それでも今は、妻とカウンセリング業を10年以上続け、メディアにも取り上げていただき、Kindle本も出版できています。
正直、こんな私がここまで来られるとは、当時の自分は想像もしていませんでした。
だからこそ、以前の私のように、生きづらさを抱えて将来に希望を持てずにいる方に、この紆余曲折の全てを、包み隠さず伝えたいと思いました。
キレイな成功体験だけを書くつもりはありません。
情けない失敗も、恥ずかしい奇行も、全部書いていきます。
それが、同じように悩む誰かの、小さな希望になれば幸いです。
今回は、まず幼少期から中学時代までを振り返ります。
長くなりますが、最後まで読んでいただけたら幸いです。
もくじ
- 鍵っ子で、シェアハウスのような家族だった
- 父の暴力に怯え、何も話せなかった
- 母の二面性と信頼できなかった理由
- 「詮索しない」が当たり前だった家族
- 多動性の記憶|額からの流血は3回
- カツアゲと、プロレスへの憧れ
- 中学野球部|父の暴力から顧問の暴力へ
- 生徒指導室で黒染めされた日
- 長渕キックと、見たことのない名作映画たち
- まとめ
鍵っ子で、シェアハウスのような家族だった
私は、鉄工所を経営する父と、専業主婦の母のもとで、一人っ子として育った。
父は早朝から深夜まで、土日も休まず働いていた。
母もパートに出ている時期があり、私は鍵っ子だった。
我が家は近所付き合いや親戚付き合いがほとんどなく、地域のコミュニティにも属していなかった。
小学5年から結婚する38歳まで、両親と食事をしたことは一度もない。
家庭内で雑談をした記憶も全くない。
つまり、我が家は、シェアハウスのような家族だった。
父の暴力に怯え、何も話せなかった
父は終始、寝不足と慢性疲労、業務量過多のため、家にいる時はピリピリしていた。
私が言うことを聞かなかったり、食べ物を残すと、ゲンコツで殴られた。
何度か反論したこともあったが「うるさい、黙れ」と殴られたため、そこからは父が怖く、極力避け、喋らないようにしていた。
小学校の時は父が怖くてしょうがなかった。
殺されると思っていた。
私は自分の意見を言わない子どもだったので「何を考えているのかわからない」と小学校の通信簿に6年間書かれていた。
発話しない子どもだったので言語化能力が全く育っておらず、それを不憫に思った母に、小学5年の時に自己啓発セミナーに連れて行かれた記憶がある。
糸を付けた5円玉を手で持ち、自分の目の前に垂らし、それを集中して見ていると、5円玉が勝手に動き出すという内容だ。
今振り返れば集中力の強化法だったのだろうが、当時の私には全く効果がなかった。
母もお手上げだったのではないだろうか。
母の二面性と信頼できなかった理由
母はADHD傾向があり、掃除や片付けができず、衝動買いもしてしまうため、父は常に母を怒鳴っていた。
まだ幼かった私が怒鳴られているのを不憫に思い、母は私を庇ってくれることもあった。
しかし、父がその場からいなくなると「お父さんを怒らせないようにして」と、今度は父を擁護する側に回った。
この二面性のせいで、私は母親を心から信頼することができなかった。
弱音を吐かない両親でもあった。
父は誤嚥性肺炎で高熱が出て手が痙攣していても、その手を逆の手で抑えて「大丈夫」と言う人だった。
母もほぼ同じで、38.5度の熱があっても「大したことがない」と言うのみ。
心情を吐露しているのも聞いたことがないし、身の上話も聞いたことがない。
私は、心情を吐露する人や、すぐ泣く人間は生き物として弱い、根性がないという認識で育ったため、そういう話をする人は避けてきた。
友人たちも同じタイプの人しかおらず、人の心情というものに、カウンセラーになる34歳まで、全く触れずに生きてきたと思う。
ASDの特性もあったのだろうが、相手の気持ちを想像する能力が34年間、全く育たないまま来たのも影響していると思う。
「詮索しない」が当たり前だった家族
高校や専門学校も、両親には相談せずに自分で決めた。
父は何も言わず、金だけは出してくれた。
高校生の時は、小遣いが月10万円以上あったが、それが変だとは思わなかった。
妻曰く、普通の家族は、大人になるにつれて両親の若い頃や学生時代、恋愛、職歴などについて聞くものらしい。
私は何一つ聞いたことがなかった。
興味すら湧かなかった。
私の両親は共に九州出身だが、何歳の頃に大阪に出てきたのか、両親の出会いや馴れ初め、最初にしていた仕事などを聞き出したのは、妻が食事の場で聞き出したのが最初である。
つまり、私にとって「何も話さない」「詮索しない」「掘り下げない」が当たり前だったのだ。
周りの友人たちも、私と同じようなコミュ障ばかりだった。
互いに詮索しないし、掘り下げない会話ばかりしていた。
私は、両親のことも、友人のことも、驚くほど知らない。
それくらい薄いコミュニケーションしかしてこなかった。
多動性の記憶|額からの流血は3回
発達障害の診断を受けたのは40代になってからだが、幼少期から多動性や不注意性は強かった。
大人になってからADHD・ASD混合型と診断されたが、幼少期はADHDの特性が強く、言語化能力が低かった。
緊張する場面では頭が真っ白になりフリーズするため、言葉が出ず、学校の授業で当てられないように、毎日怯えていた。
例えば、ジャングルジムの頂上から滑り落ちた経験は何回もある。
ガコンガコンと頭を打ちながらジャングルジムの下でグタッとなり、やる気をなくして家に帰った。
額からの流血は3回ある。
- 1回目は自転車で普通に電柱にぶつかったとき。
- 2回目はコンクリートの階段の2階から踏み外して転がり落ちたとき。
- 3回目は、当時ファミコンが出始めた頃で持っておらず、デパートのゲームコーナーでスーパーマリオがやりたすぎて、開店と同時に西宮神社の福男のようにダッシュをし、途中の商品棚に額を思い切りぶつけたとき。
このときは3時間ほど医務室で休み、結局ゲームをせずに帰った思い出がある。
これらの多動性も、少年野球をするようになってからは落ち着いた。
カツアゲと、プロレスへの憧れ
小学生の頃は、ガリガリで弱そうだったので、堺東や日本橋でよくカツアゲに遭った。
この経験から、男は強くならないとダメだと思い、体を鍛え始めた。
当時はプロレス全盛期であり、猪木や長州力を見て、強くならないとダメだと思った。
中学野球部|父の暴力から顧問の暴力へ
中学校になり野球部に入部したが、ケンカや先生からの暴力が絶えない学校で、私は顧問に目を付けられ、理不尽な暴力や暴言は日常茶飯事だった。
父からの暴力はなくなったが、今度は顧問からの暴力が始まり、めちゃくちゃ嫌われていた。
私と仲の良かった5人は、全員、顧問から嫌われており、試合には全く出してもらえず、学校の外周を毎日3時間ほど走らされた。
そのおかげで、陸上部よりもマラソンが速かった。
この経験から私は極度の人間不信になり、かなり歪んだ性格になった。
その恐怖に打ち勝つために、とにかく体を鍛えたし、バットも毎日500回振ったし、誰にも心を開かなかった。
生徒指導室で黒染めされた日
野球部が坊主で嫌だったため、部活終了後は髪を伸ばし始めた。
金髪にすると生徒指導の空手の師範代にボコられるので、わからない程度の赤っぽい茶髪にしたいと思ったが、全く知識がなかったので、ヤンキーに髪の染め方を聞いたら嘘を教えられた。
ヘアカラーを塗ったまま寝て、朝、髪を洗ったらいい感じになっていると言われたので鵜呑みにしてやったところ、真っ赤になった。
校門の50メートル前から、生徒指導の先生に「おいコラ、お前、いい根性してるな!」と怒鳴られ、すぐに髪を掴まれて職員室に放り込まれ、黒染めを振られた経験がある。
ただ、そういう奇行のおかげで、先生やヤンキーからは一目置かれるようにはなった。
長渕キックと、見たことのない名作映画たち
その頃の中学校の男子のほとんどは長渕剛が好きで、みんな「長渕キック」という、相手に罵声を浴びせながらフラフラの体勢で蹴るという謎の技を、そこら中でやっていたと思う。
私は幼少期から多動で落ち着きのない子どもだったため、長渕剛のドラマはギリギリ見れたが、映画を見れた記憶はない。
だから、普通の人が人生の中で必ず通るであろう代表的な映画を、ことごとく見ていない。
スターウォーズ、ランボー、ロッキー、インディ・ジョーンズ、ハリー・ポッターなども見たことがない。
でも、食人大統領アミンは見た記憶がある。
漫画も、小学校の間は毎週ジャンプを買っていたが、中学になった途端に全く読まなくなった。
なので、私の中では、キン肉マンと北斗の拳、ついでにとんちんかんで止まっている。
大人になって、ちゃんと見たのはスペースコブラだけだ。
このように私の知識は非常に偏っており、それが偏った知識であるというのも妻から指摘されるまで気付かなかったほどだ。
ちなみに今は心理学や集客ビジネスに全振りしている。
これでいいのかは解らないが、こう生きることしかできないようだ。
この記事を書いた人
経験と専門性
- 夫婦でモラハラの問題を克服した専門家
- ASD・ADHDの混合型診断済み
- モラハラ加害者としての更生を実現
- 週刊文春オンラインで連載で加害者心理と更生過程を完全公開
臨床経験(2010年〜)
カウンセラーとして幅広い支援経験
- 公的機関での生活保護・生活困窮者自立支援
- 福祉施設での精神疾患・発達障害者支援
- うつ病の方の復職支援
- 元受刑者・薬物依存者への更生支援
- ひとり親・DV被害者相談
- 企業内パワハラ相談
- 自助グループ・セミナー開催
メディア掲載実績
新聞・雑誌掲載
- 週刊文春オンライン(2024年11月 3記事連載)
- 産経新聞(2021年9月)
- 神戸新聞 まいどなニュース(2021年3月)
- 中日新聞 ねぇねぇちょっと特別編(2021年12月)
- ウレぴあ総研 ハピママ(2023年7月 3記事掲載)
テレビ・ラジオ出演
- NHK「ほっと関西」(2021年11月出演)
- KBS京都「笑福亭晃瓶のほっかほかラジオ」(2021年9月出演)
全国11媒体でモラハラ解決の専門家として紹介
まとめ
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
鍵っ子で、誰とも深く関わらない家庭。
弱音を吐かない両親のもとで、感情を言葉にすることを知らないまま育ちました。
父の暴力、顧問の暴力、そしてカツアゲ。
幼少期から中学まで、私は常に緊張と孤立の中にいました。
多動性や流血のエピソードも含め、後に発達障害と診断される特性は、この頃からすでに顔を出していたのだと思います。
次回は、高校から音楽専門学校までの、さらに尖っていた時期を書いていきます。
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